人の挑戦を笑う。
この集団の一員である、気持ちが通じていると感じる事は非常に気持ちの良い事である。
私はサッカーW杯や甲子園で自分の出身県のチームが勝ちあがる時などで集団の一員であると感じる時が多い。
集団競技系のスポーツを選んで見ていたのはこれが理由だったのかも知れない。
しかし、どんなに共同体との一体感を確認し享受したくても絶対に行わない方法がある。
それは他人の挑戦を笑う方法である。
この方法で簡単に共同体意識を演出する事が出来る。
他人の挑戦が不可能に近ければ近いほど、仲間たちが増え共感が得やすい。
また、コミュニケーション能力や何の努力をしなくても共感を得る事が可能なのである。
実際、私の身の回りであるがこの方法を好む人は、コミュ障と呼ばれる人や普段は無気力な人がこの方法を好んで使う傾向にあった。
その挑戦が叶わなければ「ほら、俺の言った通りだ」とインテリぶる事も可能である。
努力無しに頭脳明晰さを周囲にアピール出来る。
知り合いの研究者は
「バカほど人の提案を拒否する。そして仕事したつもりになってんだよぉおう!」
と言っていた。
色々あったんだろう。
その話を聞いてから他人の挑戦的な提案を拒否し続けて
40歳で会社からリリースされたらどうなるんだと考える。
考えただけで恐ろしい。
別にこの方法で共感を得る事は悪い事だとは思わない。
孤独になる事は怖い。なりふり構わないのは人間臭くて良いかも知れない。
他人の挑戦を笑う事のデメリットがある。
それは「自分が挑戦出来なくなる」だと考えている。
君が新たな挑戦や人生を懸けても達成したい使命が出来たとしよう。
それがどんなに立派で素晴らしい場合でも他人の挑戦を笑う事でコミュニティーの共感性を維持していた場合。
以前の仲間たちが
「不可能である」
「意識高い系」
「身の丈をわきまえろ」
と言った心無い言葉を浴びせられる可能性が高いと思い足が前に進まないと思う。
自分の夢や目標がコミュニティー維持の材料として消費されてしまうのだ。
またそのような環境下では失敗をする事が許されなくなり、平凡を志向する。
平凡でも良いじゃないかと思われるかも知れないが大半の大学生が4回生の春に
「誰にも負けない長所は何ですか?」
「学生時代に力を入れたことは何ですか?」
「あなたの人生最大の挑戦はどんなことですか?」
と問われる。
実際にある大手メーカーの人事部長は
「特長のある奴を取る。バランスの取れた奴ならいくらでもいるから。」
と仰っていた。
平凡、あるいは替わりならいくらでもいるという状態では現代日本社会の空いているポジションがあまりにも少ない。
もし、君が他人の挑戦を笑うコミュニティーに嫌気がさしているのなら。
挑戦を応援してくれる新たなコミュニティーを探してほしい。
個人的な意見であるが他人の挑戦や成功を祝ってくれる人が多いコミュニティーメンバーのレベルが高いと感じている*1。
例え、友人が具体的な助けがなくても、
「頑張って」「応援してる」「一緒に頑張ろうね」
と言われるだけで助けになる。それだけで勇気づけられる日もきっとある。
君に自分の挑戦や夢を応援してくれる人がいなくて、
孤独や諦めを感じているなら、私は君の事を応援したいと思う。
もしそれが大きめの広告会社から内定を得る事でも、会社を辞めて世界一周旅行をする事でもだ。
JALのCAとせっく・・・ではなく、寝食を共にすると言った事でも君の挑戦を私は決して笑わないし最後まで応援する。